昭和46年06月15日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
信心しておかげを受けてくれよと、おかげを受けると言う事が、神様の御心を満たすことであり、神様が満足して下さる事、いわゆる喜んで下さることである。どうでも信心しておかげを受けなければならん。そこに神様も喜んで下さる、おかげを受けた私共も、よろこべれると言う事になるのですから、ここは信心しておかげを、受けてくれよと言う事は、ただお参りをしておりますと、ただ金光様の御信心を、頂いておりますと言うだけではない訳ですね。
いやそれもおかげを受けておればよいです、けれどもおかげを受けて居ないとするなら、これは自分のは信心のごとあって実は信心じゃないんだと一つ分からして貰うて、おかげの受けられる信心に進んで行かなければなりません。あるが儘にいわゆる成るが儘に、そういう人間の生きていく姿というものが、それでお互い満足いければそれで有り難いですね。一つの大きな悟りとでも申しましょうかね。例えばここら辺が金光教の信心の一番素晴らしい処だと思うのです。
例えば親鸞上人様の教えなんかを聞かせて貰いますと、この身この儘、南無阿弥陀仏を唱えるところに即仏様のお救いがあるのだとこう言う。例えばその仏様のお救いがあるのだと言うことはね、痛いところが治るとか、痒いところが治ると言うおかげじゃない。そういう難儀は感じておろうけれども、その難儀の中にあっても矢張り弥陀如来の御心の中ぞと言うことを、悟とらして貰うところに仏教の救いと言うかね、助かり、心でもやはり、阿弥陀如来様の中だとこう言うのである。
それでね甘んじて居られればまあよいです。ところが教祖の神様の御信心は、信心しておかげを受けてくれよとこう仰しゃる。例えば子供の中に屑の子があればと仰しゃる屑の子とは、例えば親鸞上人様の教えを頂いておると、此処のところへね屑の子の自覚と言うか、浅ましい人間、それをあるが儘にとこう、その中にその身その儘でおかげを受け様とこういう訳である。
ですからそこに私は、おかげの進歩と言うものを感ぜられませんね。人間生きていく上にはね矢張りより健康でもありたい、よりお金も沢山欲しい、より地位やめいよも同じこと、名誉をやはり欲する、だがその欲するの余りです、我情我欲を先に立てての、生き方の中には、もちろん「幸」は有り得ない。如何にもある様であって、そこにはおかげを受けてくれよとおっしゃっるおかげはない。けれども誰しも矢張り、ならばこれで良いと言うことはない。
矢張りより豊かになりたい、よりおかげを受けたいと、そこんところを信心しておかげを受けてくれよと仰しゃるのは、その辺のことじゃないかと思う。ですから勿論ここら辺のところは信心、いわゆる信心とは自分自身を見つめ見極める事だとさえ言われるのでございますから、見極めて参りますとです、自分と言うものの姿が分かる。いわゆる心の不具者とでも申しましょうか、自分の心が不具である証拠に思う様に心自体が動かない、おかげは和賀心にありと仰しゃるから和賀心になろうと思う。
有り難い有り難いの一念で願えと仰しゃるから、有り難い有り難いの一念になろうと思う、けれどもどうにも出来ない、それはもう人間だからと言うたら、もうそこには向上はないですね。腹の立つ儘、暗い思いの儘、そこに救いを、その身そのまま求めると言うことは、実を言うたら自然のようであって、私は不自然だと思う。痛いのが治って有り難い、苦しいとこをおかげを受けて勿体無い、そういう矢張りおかげを受けなければいけん。そこに私どもがそういう有り難いおかげを受ける為には。
有り難い心にならして貰わねばならんと言うところからです、屑の子の自覚が出来てくる訳です。いわゆる心の不具者です。心が「チンバ」踏んどる、心が盲目である、心の自由を失ってしまう、それは心のそういう処にです、屑の子の自覚が出来てくる。だからそういう屑の子の私にでも、この様なおかげを頂いておると言うところにです、有り難いもの、勿体ないものと言う事になるのでございますけども。
教祖の教えておられます事は、その先にもう一歩前進と言うところを説いておられます。生神金光大神は家繁昌、子孫繁昌の道を教えるのじゃと仰しゃっておられますね。御理解百節、だからその身その儘、成る程私のような心の不具者を悟った、屑の子の自覚を悟った、私のような者でも、神様がこの様におかげを下さってあると言う、そこにおかげを感ずる。そこからもう一歩前進して行かねばならん。
その心の私のような屑の子であると言うその屑の子がです、その自覚に立って、いわゆる信心しておかげを受けて呉よという信心に精進していく、でなかったら私は信心に修行はつきものと仰しゃる修行はいらないと思うですね。ただ自分自身が屑の子であると分かって、その身その儘こういう御無礼者でも、神様のおかげを受けておると言う事が、ただ勿体ない、有り難いと言うておるだけでは、神様は喜んで下さらない。
神様はそれから先をです、修行せよとこう信心修行しておかげを受けてくれよと、そのおかげを受けてくれよと言うところには、いわゆる健康が約束され、経済の面でも不自由がなくなる、人間の幸せの条件と言うものが足ろうて来る、いわゆる子孫繁昌の道であり、家繁昌の道である。商売が信心に依って繁昌していく、そういう事を願うことを、例えば現世利益というて軽蔑をすると言う見方がありますね。
真宗仏教なんかではそうです。処がその現世利益が頂ける程しに自分の心が進展する、自分の心が進んでいく、より有り難くなり、より豊かになる、より大きうなっていく。そのこと自体がおかげの原動力であり、おかげの原動力たらしめるのであり、それがあの世にも持って行けると言うのですから、ただ現世利益と言うても、どうぞどうぞお金を儲かりますように、どうぞどうぞ豊かになります様にと言うても、現世利益と金光様の信心とはもう根本から違うことを知らなければいけん。
仏教で教えている事よりも一歩前進をした教えと言う事になります。そこに修行が求められる、いわゆる信心してと言うのは、その辺の事からではないでしょうか、信心しておかげ受けてくれよと言うのは。信心しておかげを受ける、その辺のところから教祖さまは、いわゆる子孫繁昌の道であり、いうなら商売繁昌の道であり、人間の幸福の条件が一つ一つ足ろうて来る、そういうおかげが頂かれて来る。
そこでです、信心しておかげ受けてくれよという信心の焦点が、その辺から変わって来る、修行と言うことになって来るです。そこで問題は修行と言うことの検討になって来ることになります。どういう修行、大概よい加減に修行させて貰いよるが、お水をかかったり、断食をしたり、そういういうならば非常手段ですね、お道の信心で言うたら、普通ではない手段、此方の行は火や水の行ではない、家業の行だと仰しゃる、表行よりは心行をせよと仰しゃる。
それでも尚且つ何とかして助かりたい、やはり自分の心の不具の状態を思いますと、その心に痛い思いをさせたり、いうならひもじい思いをさせたり、冷たい思いをさせてからでも、そこの処の立ち直りを願おうと言う、これは切実な信心ですから此処もまた尊いのです。ただ自分の体なら体、肉体なら肉体を虐待して、苦しめて、そこからおかげを頂こうと言うのじゃない、自分の心にです、自分の心にひもじい思いをさせる、自分の心に冷たい思いをさせる。
さあこれでも分からんか、これでも改まらんか、と言うように自分の心、自分の行き方そのものに、真実神様が分かりたい、真実の神様が分かりたい、真の信心が分かりたい、自分の心を本気で改めて行きたい、正しい姿勢をとりたいと言うところから、表行の道がと言うことに、お道で言うならこれは非常手段です。本当の手段じゃないです。けども、そうでもさせて貰わねばおられない程しに、信心しておかげを受けて呉よと言う信心に目指す訳であります。
ですから例えばその修行の、ここでは表行ですね、だから表行は信心してと言う事には当たりません。その信心が本当に分からして頂く為に、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、考え上げた末にそういう修行でもさせて頂いてからでもと言う事になるのです。これはね段々おかげを頂いて参りますと、それをよう分かって参ります。なら私共も矢張り過去の信心を思うて見ますと、矢張り様々な表行をさせて貰いました。けれどもそういう表行と言うものは、もう矢張り遠いものになって参りましたね。
結局心行一本と言うような風に段々なって来ております。何故かと言うとね、そういう表行なら表行を通して、私なら私の心がです、何時でも何処ででも不平を言わんで済む、不足を思わんで済むような心の状態になって来たからです。自分の心が不足を思うとる、その不足を思うとる心をとっちめて、それを叩き付けて行くと言うのが私は表行でなからなければ、お道の信心で表行でなからなければならんと思う。
ただ断食しますけんおかげ下さい、断食をしますけん良くなして下さいと言った様な、水をかかりますから、こうだと言うものであっては、おかしな信心と言う事になります。いうなら自分の心の不具の状態、自分の思うように動かない心、ああ此処で有り難いと思わんならん事は分かっとるけれども、此処で腹どん立てる段じゃない、本当にそれどころじゃない、ここは改めて行かにゃならん所は分かっとるけど腹が立つ、分かっとるけど心が暗くなる、心が「チンバ」踏んどるからまともに動かれんのです。
心がぎこちない、それは心の不具者、いわゆるくずの子の自覚であります。その自覚が出来る時です、神様の可愛いと思う心が動く、子供の中にくずの子が居れば、くずの子が可愛いと言う風に、なら可愛い、可愛いと言うても、思われるだけであって、持って来て下さる訳に行かんのが、つまり親であってもそうでしょうが、どうにも仕様がない。ただこの人ばかりはどうにも、かわいそううじゃと、いかに思うても、それこそどうにも如何ともしがたい。
なら子供の方が屑の子の自覚に立たせて貰うて、その自分の心の上に刺激を与えてでも、まともにならせて頂こう、真の心にならせて頂こう、神様に頂いておる飜然とした処の、生神の状態を心に求めさせて頂くと言うこと。そこでお道の信心をして、おかげを受けて呉よと言うのはそういう信心だと思う。そこからです、私は金光様の信心はいわゆる他の宗教が言うておる、他の宗教と言うても殆ど真宗仏教ですね、そんな考えを説いておるのは、だから広い意味では非常に楽ですね。
その身そのまま極楽と思えれるのですから、本当に思えたら素晴らしい、人間だから生身を持ってするから、食べたいものは食べる、したい事はする、それをそのまま助けて下さい、助かりを求めそこで助けて頂くのが、親鸞上人が説かれた処はそういう処にある。だから同じ仏教同志からでも、いわゆる念仏無限と言う様な悪口を言われる訳です。いつも地獄にあるなり、しかも地獄の中でも仏様の懐の中だと甘んじている感じなのです。そこから一歩も前進しようとしない。
その自分のその心にしげきを与えようともしない、立ち直ろうともしない。だから金光様の御信心はそこから前進して、金光大神は子孫繁昌の道、家繁昌の道を教えるとおっしゃる、その道がお道の信心では信心と言う事になるのです。だからその道に出なければ、その道を行じなければ、お道の信心で言う信心と言う事になってこない。どんなに神様が可愛い、可愛いとおっしゃられてもです、思われたところでいよいよ神様の心をいよいよ痛めるだけです。
様々の修行をさせて頂くことに依って、自分の心が段々円満になっていく、豊かになっていく、大きうなっていく、自分の心が楽になって来る。もうそこには水行もいらなければ、火や水の行と言ったものが不必要、いらなくなって来る。ただ有り難い一途のものを深めていく、進めていく事だけになっていく。そこには限りないおかげが、いわゆる子孫繁昌の道が、家繁昌の道がついて来る。
そういう子孫繁昌とか、家繁昌の道そういう前世利益を願う事はおかしいんだと言う人達にも、信心の根本的なところから心の不具者を悟らせて貰うて、屑の子の自覚に立たせて貰うて、その屑の子が段々屑の子でなくなって来る、そこに親の安心があり、親の喜びがある。どうぞおかげを受けて呉よと言うおかげが頂ける訳であります。そこでそういう信心にです、金光様の御信心では、そういう信心にならして頂く為に修行があるが、その修行と言うことをです。
神様が求め給う、そこんところを場合では、引いたり押したりしてでも、その修行を完璧なものにしょうとする働きがある、それをお試しという。信心が段々進んで来ると用心しなさいよと、神様からのお試しがありますぞと、それは一生懸命の修行をしておる、本当に有り難い、有り難い言うておる、そこで本当に一生懸命なのかと一寸つついて見る、本当に有り難いのかと一寸つついて見られると、もうこれ以上の修行は出来んと挫折したり、今まで有り難い、有り難いと言うておったものが。
それこそ一ぺんに有り難くなくなってしまう様なこと、じょうたいに帰る。そこで自分の信心修行がまだ至らない事を分からして貰い、自分が有り難いと言うておるのが、成る程おかげの頂けん筈だ、自分の有り難いと言うておるのは、それは本当の有り難いものではなかったんだと言うことが分かる。だから本当の有り難いものを目指させて頂くところの修行が求められる訳であり、又そこんところの腹を据えての修行じゃなからにゃならんと言うことになる。
昨夜の御理解の中に、私はお話聞いて頂いたんですけども、この度御本部から帰って来た先生方が頂いて来ておる、修行についてと言うお話を、菅井義夫と言う先生がなさって居られる。この本を私読ませて頂きながら感じさせて頂き、まあ結論として、まあ原稿に書かして貰ったんですけど、修行とは貫くと言うことである、そういう修行じゃなからにゃいかん。貫くと言う事は何処から何処までかと言うとね、おかげの頂けるところまで貫くと言うのである。
一生をずうっとおなじ修行をするというのではない、おかげの頂かれる処まで貫くのである。この先生が終戦直後、家族五人ですかね、子供さんが三人と奥さんと自分と、布教には出られましたけど、その当時は軍需工場へ先生方でも徴用で出されてしまう。ところが終戦と同時に軍需工場が閉鎖になる。そこで行くところもなくなり、又はもう食べる事に着る事に、早速路頭に迷われる事態になられる。そこから或る小さい小さい間借りの様な家を借りられて、そこから毎日電球を売りに回っておられる。
風呂敷に少しばかりの電球をね、下げて回って、一日に七里も八里も歩いて回られる。その当時の事を、これに話して居られますが、毎日毎日が草といものくきが、よい食べ物であったと、一生懸命日には百軒くらいまわる、こべつ訪問ではなくて、食堂とかカフエーとかを回ると言っとられます。けれどもね二日経っても、三日経っても、四日経っても電球一っ売れなかったと、これに書いてありますがね、十銭の金さえにぎって帰る事が出来なかった。
家ではそれこそ子つばめが親のえさを待っておる様にして、待っておる家庭に十銭の金も持たずに帰った毎日が続いた。それが一週間続いた。他の人がもう君、電球売りは止めなさいと、靴もそぜるし、ズボンもそぜる、だから他の事に切り替えたらと、ところがそう言う凄まじい修行に打ち込んで行かれる内に、二日経ち三日経ち、四日経ちして行く内にです、その修行そのものが有り難くなっておられるよう、そこは書いてありませんですけど、私が感じたんです。
有り難くなって行かれる事が次の事で分かるのです。自分が布教、この土地で布教をせなければならん、全然金光様のコの字も知らない布教に出て来ておるのですから、その土地をね、その土地柄を見て歩く、いや見て歩くではない、拝んで歩くと言う気になられた。だから毎日毎日、足は棒にしてまわられる事も、ああ今日も十銭の金も持って帰る事は出来なかったけれども、八里回れば八里のところをです、その土地柄を拝んで回ったと、そして八日目初めて電気屋さんと言うて声が掛かった。
それは或る大きな温泉町で、その温泉ホテルの勝手口から、電球はいりませんかと言うて尋ねたときに、そこの板場さんがそれこそもう塩を撒かんばかりにして、そういうものは売る程あるぞと言うて追い出された。もうそれこそ土地柄を拝んで歩くと言うのですから、勿論この家に入らせて頂くときには、とにかく入り口から拝んで入られる。どんなにエゲツなう断られても、又出る時には最敬礼をして帰られる。それを見て居ったのが、そこの御隠居さんである。
そして電気屋さんと呼び止めて、ここに扇風機が一台動かないのがあるから見てくれないかと言われた。わざわざその人の為に探して来られたような扇風機、もう本当に古い扇風機であったと。処が自分は電気屋さんで回って居るけれども、電気の事は全然詳しく無い、知らない。勿論ネジまわし一っ持って回っている訳ではない。けれども呼び止められた、それから、そんなら見てみましょうと言うてそれを見られた。
ネジ回しを借りて分解して見ると、素人でも分かるような接触せにゃならんところが接触してなかったから、それを繋いだところが見事に扇風機が回った。もうその時には本当に生神金光大神様と御礼を申し上げた。そしたら、その御隠居さんのおばあさんの部屋に案内されて、あなたは只の人じゃないですねと、お商売は素人さんですねと、まあいろいろ問われてから、そしてお道の教師である事やら、お道の話やらをなさったと言うような話がもっと詳しくいろいろ出ております。
そこから道が開けたのですね、もう電気のことに関しては、もうあなた一人にお願いをする、時々お話に来て下さい、女中達に一ぺんにと言う訳にいかんから、半分宛てぐらいに一日時間を作ってやりますから、女中達に話をして下さいと言った風なことから、素晴らしいお得意さんが出来た。フアンが出来たわけです。それは八日目であったと言う、それから道が開けた、最後に書いてありますが、壱千参百万円からのお金をかけて、最近では立派なあ広前が建立された。
そして、こうして学院生にお話をなさる位の方ですから、矢張りそういう意味でも認められて、おかげを受けて居られると言う事です。そういうお話が、これにいっぱい載っておりますが、結局は私これを読んで終ってから思うことは、成る程修行とは貫く事だなあと言うこと、どこ迄と言えばおかげの頂かれるところまで貫かにゃいけんのです。これが五日目にどうでしょう、七日目にどうでしょう、人からも言われた時に、本当に自分はと言うて止めて居られたら。
それこそ神様がもう一歩、もう一歩と言うて、思うて待って居られるところに、足を踏むことも出来んなりに、神様も悲しまれるだろうけれども、自分もつまらん事である。そしてよい加減修行したばって、おかげを受けきらじゃったと言うて、神様を恨むような事を言う。七日間も歩いて、十銭も儲からん商売を修行と思うてしたばってんだめじゃったと、そこで、ここで私が思わして頂く事はです、その修行のね、成る程厳しい事は厳しいけれども、その修行そのものが。
成る程一銭かたも成らない事は苦しい事であるけれども、内に待っておる空腹な、腹をかかえて待っておる子供達の事を思うと悲しい事だけどもおかげで、そこにそういう修行が出来る、土地を拝んでまわる事が出来るという、そこにかすかな信心の喜びを感じておられたからこそ、辛抱が出来たんだと思う。だから信心に修行はつきもの、その修行と言うのは、もう何日間絶食(断食)しましたとか、何日間もうこの先生の場合、一週間も七里も八里も歩く修行しましたと言うのではなくてです。
それが貫かれるところ迄貫かれた時にです、神様の願いである、氏子信心しておかげを受けて呉よ、というおかげがそこに待っている、だから金光様の信心はここんところが違うでしょうが、修行と言う事はそういうこと。信心しておかげを受けると言う事は、只その身その儘有り難いんだと、そこにそのまま救われる世界がある。成る程ありましょう、そこからもう一歩脱却して、もう一歩前進して、そこにいわゆる金光大神は家繁昌、子孫繁昌の道を教えるのじゃと言う道がそこからついて来る。
その道を行じて行くことが修行である。ですから先ず私どもは心の不具者である事をです、有り難い事でも有り難く受けられない、心が言わばぎこちない、チンバ踏んどる、そこに自分は心の不具者であると、いわゆる我れ屑の子の自覚を先ず頂いて、そこから修行が始まる。そこから始まるのがここで信心してと仰しゃる、そこからの信心だと思う。しかもその信心も修行も貫かなければいけない。
段々自分の心の上にも自由自在に有り難い、ああおかげ、おかげをおかげとして頂ける心の状態が、育って行くおかげを願わして貰わにゃならん。そこんところが私はお道の信心の大事なところであると思う。そして金光大神は、ただ屑の子の自覚に立っただけではなくて、その自覚に立った処から進められる道、そこから修行が、お道の信心でいう修行がある、その道が子孫繁昌、家繁昌の道である。あの世にもこの世にも持って行かれれば、残してもおかれると言う徳を受けて行く道が開けて来る。
そういうおかげを願わして貰わなければならない。特に私どもさして頂いておる、その修行と言うものがです、果たして貫かれておるであろうか、若しそれが貫かれないと、これ程信心したのにと言う事になって来たり、神様もああもうもう一歩と言う所で挫折したらです、もう神様とてもこの様にしてでもおかげをやりたいから、試しても見られる、さあもう一歩前進して来いと願いがある。そこにおかげがあるのだけれども、そこまで到達し切らなかったら、神様も悲しい思いをなさらなければならない。
屑の子程可愛いというと言っておられるが、屑の子程可愛いいと同時に、そこからよちよち歩きなろうた信者氏子が、まあさあもう一歩と言うところまで、歩きを止める様な事がらであっては、試した甲斐もなければ修行させた値打ちもない、と言う事になって、神様も人間氏子も助からない事で終わってしまわなければならない。信心修行と言うことは貫くと言う事である、と結論が出た。そういう信心修行させて貰って、おかげを受けて行かなければなりませんね。
どうぞ。